千葉さな終焉地

坂本龍馬の許嫁 千葉さな(佐奈)終焉の地「千住」

坂本龍馬(1835~67)は、土佐から江戸に剣術修行の為、千葉道場に入門。
道場の娘千葉さなと出会い婚約したとされます。
晩年は、千住に住み家伝の灸を生業に暮らし、龍馬の片袖を大切に、59歳で生涯を終えました。

 

千葉さな(佐奈、さな子、佐那)初名は乙女

天保9年3月6日(1838)~ 明治29年(1896)10月15日

司馬遼太郎の龍馬がゆくでは「佐那」
千葉家の位牌・千住文書には、「佐奈」
甲府清運寺の墓には「さな子」と記されている。

北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟・小千葉(桶町)道場千葉定吉の次女。
父/・定吉、母/瀧、姉/梅尾、兄/重太郎、妹/りき・きく・はま
14歳で免許皆伝、その美貌と剣の強さから千葉の鬼小町と呼ばれていた。

土佐から江戸千葉道場に入門した龍馬と天下静定の後を待って華燭の典(結婚)を挙げたいとし、父定吉もそれを許可し、龍馬は桔梗紋服、千葉家からは短刀一振りを取り交わし婚約したとされる。
龍馬は、姉乙女に佐那を紹介する手紙を送っている。(北海道坂本龍馬記念館所蔵)
『おさなは、もとはおとめという、ことし26歳、乗馬がうまく、剣の腕も大変強く、長刀もでき、力は並みの男よりも強く、琴を演奏し、絵も描き、性格もしっかりしていて、それに加え物静かな人です。』
しかし、坂本家には、許嫁としては伝わっていなっかったようである。
幕末動乱の時代、龍馬は、伏見寺田屋で襲撃され、助けられたお龍と結婚。
慶応3年11月15日、京都河原町の近江屋で暗殺される。

さなは晩年、明治15年頃千住に移り住み、家伝の灸を生業として暮らし、59歳同同地で生涯を終える。
谷中墓地に埋葬され、現在は八柱霊園の無縁塚に葬られている。
甲府清運寺「千葉さな子」の墓は、生前懇意にしていた自由民権家小田切謙明の豊次夫人が無縁仏になるのを不憫に想い建てた墓である。
●独身を貫いたという一途な女性像で話題になったさなさん。
生涯独身それは、小説・ロマンのお話。
「さな結婚していた」 実は龍馬七回忌後求婚され結婚していたと新聞に報道される。横浜で元鳥取藩山口菊次郎に求婚され結婚、しかし、10年弱で離婚。

歴史研究家あさくらゆう氏」の研究により、真実が解き明かされました。

・足立朝日:2010年1月5日号/龍馬の許婚・千葉さな子は千住に住んでいた 片袖に想いたくし生涯独身

明治15年春 千葉さな45歳頃

千住1-1(現1-4)へ灸治院開業

明治20年3月25日

足立群役所建築立退きのため、千住中組70番地(現仲町12)へ

明治21年7月31日

千住中組993番地(現仲町1-1)に灸治院を新築

明治29年 千葉佐奈没

明治36年 兄重太郎家の千葉束が稼業を継承

昭和18年 仲町29番地(現3-7)に移転

区画整理、強制疎開のため

 

千葉灸治院は、昭和50年代まで引き継がれ、ご子息が平成12年までお住まいでした。