清亮寺

江戸時代千住宿は奥州街道、日光街道、水戸街道の初宿でした。その水戸街道千住宿入口にある清亮寺の門前に老松が1本茂っていました。幹が高さ約2メートルから折れ曲がり、街道に張り出し路上におおいかぶさっていました。
 ある時、江戸入府のために水戸を出発した徳川光圀の行列の槍もちの槍が、清亮寺の老松にあたり前に進むことができなくなりました。
 大名行列は、宿場に入るときには槍持ちの奴が行列の威容を誇るために大槍を高く捧げ持つて練り歩くならわしになっていました。槍持ちの奴が行列の花形となるときで、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。
 奴たちが行列の前のほうで騒ぎ出し街道に張り出した松を切ろうとしたとき、騒ぎに気付いた光圀は籠から降りてきて、見事な枝振りをご覧になりすぐさま休憩の命を出し大槍を老松の枝に立てかけさせました。
 そしてお供の者どもと共に老松の風雅な容姿や周辺の景色を眺めながらお茶をすすったということです。
 この名松を切るのは惜しいと考えた光圀の粋な采配ぶりに、お供の者はもちろんのこと、住職や付近の村人たちまでが感涙にむせんだということです。
 以後水戸藩では清亮寺門前を江戸出入りの際の休憩場所とする習わしにしたそうです。
 以来、この松は「槍かけの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立掛けて休むようになりました。
この松は昭和13年ごろまでありましたが、枯れてしまいました。その時の年輪調査では350年は経過しているとのことでした。
この松の写真が現在山門の内側の石碑にあります。