伊達政宗伝説の高野槙橋杭

千住大橋
  1. 伊達政宗伝説の高野槙橋杭
  • 文禄の架橋から425年の間、幾たびかの水害による流失や修理、架け替えが行われてきましたが、最初の橋の杭は伊達政宗寄進の「高野槙」であると伝えられ、江戸時代の雑記や、古川柳「伽羅よりもまさる、千住の槙の杭」などで知られています。この江戸時代の橋杭がいまだ川床に残っているとの話が千住の町に伝わっておりました。平成15年6月19日 古老の船頭の話から、東京都河川部が調査を行い現千住大橋下に3本の高野槙の木杭がいまだ眠っている事が確認されました。その際木片を採取し分析した結果、材質は高野槙であることが判明しました。まさしく伝説通りとなったわけです。現在もこの高野槙橋杭3本は川床にありぞの目印として朱色のブイが結ばれその位置を確認できます。

  • 千住の古い家々の神棚や仏壇の奥に明治18年に流失した橋杭で作られた彫刻が大事に保存されています。千住が現在に至る隆盛を見たのは、日光道中と千住大橋のお陰です。その恩義を形として残す為地元の彫刻家富岡芳堂に依頼したものです。

千住の心を彫り込んだ
彫刻家 富岡 芳堂

開府以来千住大橋は、江戸八百町の動脈、北の玄関として江戸を支えてきました。そしてこの橋を守るため多くの人々の貴い心血が注がれてきたのです。

千住界隈も橋の恩恵をうけて古くから発展しましたので人々の心の中には、橋に対し感謝の気持ちが根づいており現代まで受け継がれています。

この気持ちの表れとして、現鉄橋へ架け替える時(大正15年)幕府終焉を見とどけた最後の木橋橋材を人々は貰いうけ、千住の旧家が発起人となり頒布会を組織し千住の人々の気風を後々まで伝えるために、彫刻家 富岡芳堂に依頼し、いくつもの彫刻となりました
彫刻家 富岡芳堂(当時千住二丁目、富岡呉服店生まれ)がこの思いを一心に彫りこんだ作品は戦災をくぐり抜け今も旧家に秘蔵されています。(戦災の為ほとんどが焼失)

富岡 芳堂作
作品:寿老人・翁・仏像・鐘馗・恵比寿・大黒・観音像 他

 

富岡芳堂プロフィル 中央 芳堂、右 妻 あき

●本名 富岡 米蔵
・1890(明治23年)12月2日生
1957(昭和32年)12月3日没67歳
・富岡呉服店千住二丁目16番地、富岡忠兵衛氏の
次男として生まれた。(頒布会資料による)
・千住中居町に住居アトリエ(写真中央本人)を持つ。

●事績
・幼くして芸術を好み、彫刻家吉田芳明氏に師事。
・1915(大正4年)米国サンフランシスコで開催
された万国博覧会に国産代表作品として出品され、
二等銀牌を受けた。他文展、帝展に数度の入選を重ねた
[千住町名士月旦による]

・1927(昭和2年)第八回帝展に高野槙材で「久遠の春へ」を出展。
[頒布会趣意書による]

・南北千住町に旧千住大橋 銘木高野槙橋杭大黒天恵比寿彫刻頒布会が発足し
3種類の木彫を数多く制作し、千住住民の橋に対するの感謝の念をきざんだ。

・千住大橋の橋材で作られた多くの作品は、芳堂のスプリットに同感を得た千住の人々に愛されるものとなり、戦災をくぐり抜け床の間や仏壇奥深くに納められている

●芳堂について
芳堂の事績、千住生え抜きの芸術家としての渾身の創作から、悔いの無いの人生を送ったものと思われる。ご子孫のお話を伺う所では晩年は清貧の芸術家であった、大家の証か。
吉田芳明師事時代の同門に、乃木希典の甥 長谷川栄作がいる。その関係だろうか珍しく平服姿の乃木希典の木像を制作している。芳堂の交友範囲の広さがうかがえる。芳堂は千住に代々続く商家に生まれ育った、江戸時代から千住の繁栄を支えた千住大橋に、恩義を抱いていた千住の人々の心を、自身も強くもっていたのであろう。