奥の細道旅立の地船着き場

芭蕉「奥の細道旅たちの地」千住

千住大橋下 船着き場

  1. 『おくのほそ道』の本文冒頭に千住が登場し、旅たちの地としてその名を世界中に知られています。元禄2(1689)年5月16日(新暦)深川から芭蕉の乗った船は上げ潮を利用し隅田川を遡ってきました。千住大橋下の船着き場は隣接地に将軍専用船のお上がり場もあり、隅田川を行き来する船のターミナルでした。上陸した芭蕉は矢立て始めの句

行春や鳥啼き魚の目は泪

を残してここから「奥の細道」へ旅立ちました。

  1. 芭蕉は名の知れた俳諧の宗匠として地位はたかまっていましたが、彼は、世間的な声望におぼれて、安閑としていることができませんでした。安易な深川芭蕉庵で、の暮らしをすてて苦難の道を選ぼうとしたのも、詩人の宿命でしょうか。「そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず、」とあるように、やむにやまれぬ漂泊の思いが旅に駆り立てたのです。そして芭蕉は家を売り、死を覚悟した旅立ちでした。
  • 芭蕉は弟子の河合曾良を伴い大垣まで2400㎞の距離を156日かけて旅を続け、道中で詠んだ俳句をもとに「おくのほそ道」をつづりました。
  1. この船着き場には、大変珍しい江戸時代後期の全国「川の番付表」と「橋の番付表」の拡大レプリカが掲示されています。これによると、千住の大橋と隅田川はともに行司役となっております。この番付表をよく見ると日本中の当時の川と橋が名を連ねています。

矢立初めの芭蕉像(千住宿奥の細道プチテラス)

平成16年、芭蕉生誕360年を記念して建立。

芭蕉は、千住で奥羽、北陸、岐阜の大垣へと約600里(約2,400km)、およそ半年の旅を続け、道中で詠んだ俳句をもとに「奥の細道」をつづりました。

矢立の始めとは、旅に出て初めて筆をとり、句を詠むことです。芭蕉が送りに来た弟子たちとの別れを詠んだ「行春や鳥啼き魚の目は泪」は留別吟と言います。この芭蕉像は、「おくのほそ道」序文にある「…、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより、…」の部分より旅の準備を整え、体力も十分蓄えたであろう旅たち前の芭蕉をあらわした石像です。

他の地域の芭蕉像は芭蕉を神聖化し「俳聖芭蕉」と崇め仙人・聖のような姿の像が殆どですが、千住の矢立初めの芭蕉像は「俗人芭蕉」を表した芭蕉像なのです。