千住宿周辺の街道・堤防堤 (インフラ交通)
街道
堤防堤

千住龍田町交差点 左:熊谷堤 右:掃部堤
街道
千住宿のメイン道路。1625年、日光奥州街道の初宿に指定され日本橋から2里8丁。宿場内の道幅は4間、宿場内では微高地で街道の左右へ勾配が有り雨水排水が流れて行きます。
江戸時代、東北、常磐、下総からの大名行列等行きかっていました。
上野寛永寺の輪王寺の宮様は、日光山参詣時に此処を通り、日光街道を下って行きました。下谷道は、南千住の素盞雄神社で日光街道に合流します。
日光奥州街道を右に、紙漉き問屋だった横山家を過ぎると右へ行く道幅3間の水戸街道が東へ向かっています。旧日光街道、水戸街道の分岐点に道標の石碑があります。
常磐線下を歩いて行くと“槍かけの松”で有名な清亮寺があります。
水戸街道の分岐点を過ぎると日光街道は左へ曲がります。
真直ぐ行く道が下妻街道です。少し行ったところに接骨医院で有名な名倉医院があります。北へ進み、下妻を通り喜連川まで行き、奥州街道に合流します。
堤防・堤
石出掃部介吉胤が1598年千住に移って新田開発をする。19年後、幕府の許可を得て隅田川の堤防堤を造る。
1年余りで千住龍田町から牛田駅まで約2Km高さ4mの堤防です。掃部堤と云われた。桜が植えられ“さくら土手”とも云われていた。
旧足立区役所通り沿いに、熊谷堤が江戸時代前に小田原北条氏により造られていました。自然堤防を利用しながら熊谷市まで延びていました。日光街道と交差している処に一里塚、高札場跡の碑があります。
- 日光街道と水戸街道の分岐
- 日本橋から2番目の一里塚