千住宿紹介

北千住駅で降りたらちょっと立ち寄って千住宿を覗いてみよう!

仕事に、買い物に、飲食に、多くの人が、北千住駅を乗り降りしています。

少し時間が空いたら千住の街の歴史、文化、街並みの様子を覗いて見て下さい。北千住駅を降りたらそこは宿場町です。

1 西口駅前ペディストリアンデッキ

2 マルイ10階 千住宿のジオラマ

3 本陣跡

4 千住街の駅

5 金蔵寺

6 橘井堂医院跡(森鷗外居住跡)

7 東京電機大学キャンパス

8 北千住駅前飲み屋横丁

 

1 西口駅前ペディストリアンデッキ

平成16年に駅前開発が完成。北千住駅前西口ペディストリアンデッキが造られ駅ビル ルミネ、マルイ、駅前バス通り商店街そしてデッキ下のバスセンター停留所と繋がっています。

グラスを上に掲げ見上げるとイルカが舞っています。“乾杯”宮田亮平氏のモニュメントが有ります。

北千住駅は、明治29年日本鉄道土浦線(常磐線)の駅として、明治32年には東武線が北千住と久喜間が開通し営業をしました。今では4社5路線が営業しています。

 

 

マルイ10階 千住宿のジオラマ

江戸時代の千住宿の様子が見られるジオラマが設置してあります。

1/50の縮尺で今の千住1丁目と仲町の一部が造られています。

一里塚、高札場、問屋場、貫目改所、飛脚問屋は何処かな?

日光街道が南北に走って、両側に間口が小さく鰻の寝床の敷地となり、建屋が連なっています。土蔵や家作、畑が裏側にあるのが分かります。

ジオラマの廻りには千住宿の概要が分かる掲示板があります。

 

本陣跡

北千住駅西口を西へ進みカラオケ館脇、浅川医院前を通り旧日光街道に出ます。本陣跡の石碑が“そのうビル“百円ショップ”入口左側に在ります。

江戸時代大名、公家等、が宿泊、休憩に使用していた本陣があった処です。

本陣跡の南側の路地を見番横丁と言います。明治~昭和初期に置屋組合の見番があり芸妓さん等を呼んでもらいました。通過して来た浅川医院は、明治9年、14年に明治天皇が東北、北海道へ巡幸した時に休息所として利用された飯盛旅籠中田屋があった行在所跡です。

千住街の駅

千住宿場町通り(千住3丁目)に千住街の駅があります。
足立区観光交流協会が設置した案内所です。千住の地図、パンフレットが置かれ、ちょっとしたお土産も置いて有ります。
建屋は、大正時代からの建屋で、魚屋さんでした。
作り付けの冷蔵庫あり、蛇口が幾つかあり、ショウウィンドには魚が並べてありました。街歩きで疲れたら縁台で休憩下さい。

5 金蔵寺
御本尊は、蕎麦閻魔の言い伝えがある閻魔様です。
門を入り左には千住遊女供養塔があり、台座には遊女達の戒名が彫られています。隣には天保餓死者供養塔があります。
千住で病死、衰弱死した人が828 人にも上り、千住の4ケ所の寺に分けられ埋葬されています。千住の歴史を感じますね。

橘井堂医院跡(森鴎外居住跡)
森鴎外の父、静男氏が明治12 年東京府から郡医の委託を受け千住へ転居し橘井堂医院を開業。東京大学医学部を卒業した森林太郎“鴎外”は明治14 年
に千住に住み父と共に働き始めました。その後、三宅坂の陸軍病院に勤め明治17 年に4年間ドイツに留学します。帰国後明治 22 年に結婚し千駄木(観潮楼)へ移り住む。明治24 年まで静男は千住で医療活動を行ていました。

東京電機大学キャンパス
北千住駅東口に平成20 年 JT (日本たばこ産業)跡地に東京電機大学の進出が決まり、平成24 年に開設されました。

理工系大学です。

周辺地域も整備され東口の開発が行われました。キャンパスの一部はオープンとなり散歩するのも良いと思います。街の駅でマンホールカードを希望者へ渡しています。そのデザインマンホールが近くにあります、探して見て下さい。

8 北千住駅前飲み屋横丁(ときわ通り)
北千住駅西口を出て左へ曲がると飲み屋横丁(ときわ通り)へ行きます。
路地を進んでいくとお酒を出す飲食店が密集し賑やかです。進んで行くと千代田線北千住駅1番出入口に出、さらに進むと千住大踏切に行きます。
天七、永見は、大衆酒場で時々マスコミで見ます。隣の路地ではランチ時お客さんが並んでいる飲食店が有り、土蔵の喫茶店もあります。