千住空襲戦跡展

千文会は千住地域の歴史・文化を次世代に継承するために活動しています。

千住空襲戦跡展

◆2007.4/13~15 『千住空襲・戦跡展』~語り継ぐ戦争と復興の記録~
北千住マルイ・シアター1010・11階ギャラリー

昭和20年3月10日の東京大空襲から1か月後、4月13日から14日にかけて、千住地区も大規模な空襲をうけ一面焼け野原となりました。その罹災の跡を撮影し、10年後の復興の様子も含めて記録したアルバムが残されていました。
千住仲町の旧道沿い、パノラマ風につなげられた写真中央には、焼け残った若田薬局(左側)と隣家の川魚問屋「鮒与」の蔵が並んで写っています。記録したのは、江戸時代から十八代続く「畳屋くすり本舗」若田薬局の先代当主・若田正治さん(故人)です。
今回の「千住空襲戦跡展」は、この昭和史の文化財発掘を機会に、平和な暮らしへの願いをこめて千住の町を見直し、戦争と復興の記憶を語り継ぐよすがとなるよう企画されました。
開催にあたって、教育委員会の後援、郷土博物館の協力、公益信託あだちまちづくりトラストの助成を受けるなど様々な機関、団体、地域、個人のみなさまのご協力、ご支援をいただきました。お礼申しあげます。

 

NPO法人千住文化普及会

・   若田家の蔵 鮒与の蔵
現存する若田薬局と鮒与の蔵。若田家の蔵が修繕された当時、携わった職人は、生涯最後の仕事となるだろうと、舐めるように手掛けたという。「鮒与」は「千住の酒合戦」にも名を残す江戸時代から続く旧家。文学博士内田銀蔵(1812~1919)の生家である。銀蔵は嫡子ながら家督を弟に譲り、千住に伝わる学術も承継するなど学業を積み東大に進学。後に京大教授となり経済史のバイブルといわれる「経済史総論」を刊行。日本史で習う中世、近世などという時代区分の確立に大きな足跡を残した。墓は日ノ出町の清亮寺にある。

・   千住の蔵
蔵は火災に強くとも、焼夷弾の直撃をくらい、あるいは焼け残っても十分冷却しないまま扉を開け、内部が再燃して消失してしまった物も少なくないといわれる。「蔵研究会」の調査によれば、平成10年時点で、千住には50を越える蔵が存在し、用途も様々に活用されているが、保存にはそれなりの困難を抱えているようだ。国道4号線沿いに、外壁は焼けただれた姿を残しているが、質屋の蔵として機能している蔵が見られる。
この蔵は、河合栄治郎の生家「徳島屋」(現トポスの場所)から現在地まで曵き移されたといわれている。

・   河合栄治郎
河合栄治郎(1891~1944)は千住の酒屋「徳島屋」の次男として生まれた。
少年時代から社会的関心が強く、内田銀蔵とも親交があった。「生きていれば戦後の日本は変わっていただろう」(立花隆)といわれるほどの経済学者、教育者だった。
官界から東大教授となり「学生に与う」等の著作で大きな影響力があった。左右の全体主義を公然と批判したが、その理想的自由主義は戦時のファシズム政権によって弾圧され、全著作が発禁処分。東大も追放され、終戦を見ずに病没した。戦後、全集が編まれ、昨今再び見直されている。

・   中島家 やっちゃ場の鉄筋作りモダン建築
昭和10年ごろ建てられた鉄筋コンクリートの建物。木造家屋がふつうだった当時、相当な費用をかけたモダン建築であった。空襲で内部は焼失してしまったが、焼け野原になって、仲町から大橋までの間が見通せるようになってしまった状態で、唯一目印になる建築物であったという。旧道沿いで店の前に敷かれた石畳が残されている希少な場所であり、そこでせりを行っていた当時のやっちゃ場の様子が偲ばれる。ちなみに千住の神社の神輿蔵は鉄筋づくりが多く、そのため戦災の被害のわりには多数の神輿が残されている。

・   石出掃部介ゆかりの民家
元北条の家臣だった石出掃部介吉胤は、北条家滅亡後、本木村吉祥院に来て、文禄2年千住大橋架橋に従事して功績を上げ、千住の河原に移り新田開発し、現在の仲町、河原町、橋戸町を開拓した。元和2年荒川水除堤(掃部堤・現墨堤通り)を築き翌年には完成させた(安藤義雄氏資料より)。そのため、この一帯は掃部宿とよばれ千住に加宿された。吉胤の墓は掃部堤沿いの源長寺にある。写真は仲町の石出掃部介ゆかりの民家で、門は戦災当時の面影を残し現存している。しかし、その軒下には戦火に焼爛れた痕跡が残っている。

・   源長寺の大欅
源長寺は、浄土宗稲荷山勝林院と号す。千住大橋を架けた伊奈備前守忠次菩提のため、石出掃部介らによって創建された。戦災で焼失し、創建当時からあったであろう欅の大木も焼けた。境内には炭化した巨木が残されている。165センチの人物と比較すると、その大きさが判るだろう。樹齢200年といわれた大銀杏は、戦火に遭いながら再び芽を吹いたが、昭和40年の台風で折れてしまい、現在は撤去されてない。ここから西の方角にかけて、江戸時代以前には森が広がっていた。巨木も林立していたのではないだろうか。

・   戦禍を残す千住神社の銀杏
千住神社は、延喜式神名帳にも記されている千住一の古社。開拓民がこの地の森に稲荷を勧請、のちに氷川神社の分霊を祭ったため「二つ森」といい、日光道中・千住宿の西にあたるので「西の宮」と称したという。大正4年、千住神社に改称。昭和20年4月13~14日の空襲で、神輿蔵以外の建物すべて焼失。境内中央の銀杏に戦禍の跡を留めている。「八紘一宇」の碑、戦争で倒れた軍人・戦士の供養塔も残されている中、神殿再建、復興にあたっての記念碑が設置されている。

・   八紘一宇の碑
千住大橋の南側に大きな「八紘一宇」の碑がある。紀元2600年(昭和15年、1940年)建立とある。「八紘一宇」とは、明治の宗教家が『日本書紀』の「掩八而為宇」から造語したもの。この標語は、世界の統一した秩序を願うものともいわれるが、「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(なさ)む」の意味を、「アジア地域最高の先進国である日本が家長として率いる。よって諸国は日本を中心とした秩序に従うべし」という皇国思想のプロパガンダとして解釈し、アジア・大平洋戦争の正当化に使われた。

・   千住神社の防空壕
千住神社の入口付近、柵に囲まれ、草木に覆われた一画がある。そこに地下へと入口を開けている構造物が見える。60余年ひっそりと放置されてきたコンクリートの箱、防空壕である。模型とほぼ同寸。誰が、どのように退避しただろうか。何人が避難できただろうか。果たして実効性があったかどうか。つい先頃取り壊された旧道沿いの商家の床下には、防空壕の跡があったという。道ばたの土嚢で囲まれた待避壕を憶えている方がいる。墨堤通りの堤の下、家の前に掘られた防空壕に避難した思い出を語ってくださった方もいる。

・   慈眼寺の戦跡
新義真言宗千龍山妙智院と号す。三代将軍家光から観音像を下賜され城北鎮護の祈願寺となった。立葵の寺紋はそのため。俳諧寺とよばれるほど文人墨客が集ったという。
戦災で寺宝類は焼失してしまった。ここにも戦禍を留める樹木が痛々しい姿を残している。北側の塀には、隣接していた長屋から墓地へ、戦火から避難できるよう開けられた痕跡が残る。B29無名戦士慰霊碑は、千住の篤志家・跡部欽也らが設置。空襲で撃墜されたB29搭乗員戦死者の霊を供養し、建立にあたり作家の長谷川伸が顧問として名を列ねている。