梅田・関原地区は荒川の北に位置する。江戸時代前から集落があり発展していた地域です。梅田は昔、河口に当たり堆積物が広がり、此処を埋め立て新田が開発された。
“埋田”から“梅田”に美称された。関原は、大聖寺(関原不動尊)から発展、名は関原山不動院大聖寺の関原で通称関原という地名が唱えられた。
石不動は、明王院不動尊への道標となっている導き不動の一つです。マスクをしたお地蔵さん。
半分割れている「~王院」石標がある。「子育弥彦尊道 是より二丁行く」石不動石造り。台座に「耳不動尊」と刻まれている。
不動堂(本堂):朱塗りの堂宇は、その容姿から「赤不動」と呼ばれています。
明王院には、二つの仏像が祀られています。赤不動(不動尊)、如意輪観世音菩薩坐像。
治承2年(1178)に源為義の三男志田先生義広が創建。江戸時代は将軍家の御善処でした。
江戸の大火で芝神明が焼失したとき当地に神明宮建立されたと伝えられている。
本殿棟札には享和3年(1803)が、手水鉢には文化12年(1815)の銘と「神明宮」の社号があり。
祭神:宇迦御魂命
創建:志大先生義広が建立。治承四年(1180)。
明王院の由緒にも登場する志太義広が開いたと伝えられる梅田の鎮守です。
梅田各町会の神輿が保管されています。
宝徳元年(1449)開山 真言宗豊山派。本尊:不動明王。 本堂:木造で足立区最大の大きさ。
嘉永元年(1848)深川木場の講中が材木を寄進8年掛け再建。
寄進された大賽銭箱安政4年(1857)は、銅の鋲が多く打ち 込まれています。
8代目市川団十郎が、眼病平癒のお礼に 大提灯を寄進した。関原不動は、広範な下町庶民の信仰を 集めている。関原不動と呼んでいます。
広場の中心にある木は“しいの木”です。
ミルドレッド・アン・ペイン(ミス・ペイン)が昭和4年に本木の貸し部屋で図書館を開設、
昭和5年に「けいあいがくえん、愛と恵の学園」愛恵学園を現在の地に開設しました。
セツルメント活動の拠点としました。
中曽根城は、武蔵千葉氏の拠点でした。
中曽根城は、千葉次郎勝胤によって室町時代に築城される。
中曽根という地名は、本木村の小字名。
千葉氏の居城だったころは、淵江郷と呼ばれていたので淵江城とも云われる。
中曽根神社は、妙見社を勧請。
東武線が明治32年、北千住から久喜間が開通しました。当時の線路が此処を走りました。
北千住駅の次は、西新井駅でした。
明治43年東京下町一体が大洪水となり、それを契機に明治44年から昭和5年に掛け荒川放水路を造り、その時東武線の経路が現在の位置となりました。
江戸日本橋から日光東照宮迄36里3丁約142㎞。
日光街道最初の宿場町千住宿から次の宿場町草加宿の間にあたります。
その間約10㎞です。田畑が広がり低湿地帯を街道は通っています。