千住宿場街案内(4丁目・5丁目古刹・古民家)
千住4丁目、5丁目は、日光街道沿いに古刹、古民家が多く有り宿場の雰囲気を多少感じる処です。
又パワースポットでもあります。晴れた日、荒川土手に上がれば気持ち良いですよ!
「絵馬屋」は屋号です。
縁取りした小ぶりの経木にカラフルな泥絵具で描かれた絵馬です。
絵柄は家伝的な作風で、見る人が見れば、何家、何作かが判るようです。
区内の寺社には、多くの千住絵馬が掛けられています。
また、町内では地口行燈を目にします。これも絵馬屋さんの作です。
地口、江戸のダジャレ、ことわざを言い換え絵にした地口絵を行燈木枠に貼りつけたものです。地口を解読するのも面白いす。
建屋は、江戸時代後期万延元年(1860)に建てられた傳馬屋敷の面影を残し地漉紙問屋の遺構として2階建ての商家建築です。(間口:9間奥行15間。)
傳馬屋敷とは、人馬の継立を担うため必要な人足、馬を用意する役目(傳馬役)を務める家を言います。横山家は馬を1匹提供していました。
千住地漉紙問屋は梅田や本木などの農家が再生した地漉紙を仕入れ浅草紙として江戸市中を相手に商売をしました。(大川町氷川神社に紙漉碑があり問屋21軒が建立しました。)
山岡鉄舟による揮毫、屏風、看板、額、があり、彰義隊による柱の刀傷があり横山家の歴史を感じます。
新義真言宗・月松山照光院円長寺・ご本尊 薬師如来像(秘仏) 横山家の右脇路地は、長円寺の参道でかつては、御影石の敷石と、両側に“からたち”の生垣が続いていました。
扁額「月松山」の掛かる山門の左に、めやみ地蔵堂(子育延命地蔵)があり、多くの“むかい目”の千住絵馬が眼病祈願に掛けられています。後生車が地蔵堂の前に置かれています。
上に回すと来世、下へ回すと今生の願いが叶います。
境内は、山門の左に魚籃観音堂・右に四国八十八ヶ所巡り毛彫石碣群像があります。
その他、本堂内天井は琳派絵師による四季花鳥図が現存。また、寺宝として乳泉石と呼ばれる石があります。婦人がこの石を削り呑むと乳の出が良くなります。
元禄4年(1691)に長円寺境内に創建。祭神は、素盞鳴命(スサノオノミコト)。
この神社の本地仏は、魚籃観音で明治の廃仏毀釈の時、別当寺であった隣の長円寺に移れました。現在の社殿は明治16年(1883)に造営。
境内には寛政5年(1793)建立の鳥居、文化9年(1812)の手水鉢があります。
拝殿左には、高正天満宮が祀られています。
高正天満宮は、千住4丁目の名主の高梨家とその断絶後門地を継承した正木家を祀ったもので、高梨家が始めた「群雀堂」と言う寺子屋は千住で著名もので江戸時代を通じて教育の功績は大でした。
「群雀堂」の由来:高梨→子雀遊ぶ(たかなし)→鷹がいない→すずめが集まる→群雀
“江戸ダジャレ”
名倉重直が寛文から元禄(1661~1703)の頃、千住に住み、その4代目名倉直賢が
接骨術を極め、明和7年(1770)に「骨接ぎ」を始めました。
子孫はこの直賢を業祖として崇拝しています。医院の黒門長屋門は、12代将軍徳川家慶の時「千住鷹狩りご休憩所もうしつくる」と内示を受け建てられました。
13代将軍家定が将軍になる前、嘉永元年(1848)と同4年(1852)にここに立ち寄っています。
名倉家の特色は、名倉流の云われる「かぶれることが少ない黒膏」と「独自のあて木(副木)」、そして「緩まない包帯技術」で有名でした。
北を流れる荒川は、此処に名倉医院を残すためぐるっと曲がっています。
新義真言宗豊山派 西林山安養院長福寺 本尊 阿弥陀如来像(鎌倉期の金銅仏)
創建は鎌倉時代建長年間(1249~1256)の頃、執権北条時頼が建立。(千住では、最古の寺。)
八代将軍徳川吉宗が、鷹狩りの都度、安養院へ立ち寄り休憩した。
寺紋に葵の紋が許される。本堂は、屋根の真中に宝珠がのる宝形作りです。
かんかん地蔵は、小石をカンカンと音をたて自分の体の具合の悪い処を叩き祈願すると病気平癒します。
境内には、松尾芭蕉の句碑、樹齢500年の黒松、定規筋の築地塀、解体した大黒湯の屋根(唐破風)がある。