千住宿場街案内(駅から街駅)

北千住駅から旧日光街道に出ましよう。

旧日光街道沿いには千住街の駅があります。

街歩きの前に立ち寄ってマップを貰い街歩きをしましょう。

江戸時代、宿場街の中心街、本陣が有り飯盛り旅籠が集り、この辺は今も昔も千住の繁華街です。

① 北千住駅

② 中田屋跡

③ 本陣跡

④ 見番横丁

⑤ 千住街の駅

⑥ 千住宿場町ジオラマ

 

1 北千住駅:千住の玄関口です。明治29年(1896)日本鉄道土浦線の駅として開業、明治32年(1899)東武線が開業する。北千住駅の名は、明治初年千住八ヶ町を北組(1丁目~5丁目)、中組(掃部宿)、南組(中村町、小塚原町)に分かれた、その名残りです。因みに北千住としての町名はありません。北千住駅の守神、猿田彦大神が守っています。

モニュメントテーマは“乾杯” シャンパン(イルカ)が飛び跳ねている。

 

 

2 中田屋跡:北千住駅の西隣に中田屋(宿場の1,2番の大旅籠、妓楼)が有りました。今の浅川医院の処。広さは、1,000余坪あり 士分以上でなければ利用できません。明治9年(1876)、明治14年に明治天皇は東北、北海道へ巡幸し3度も此処で休憩されました。奥座敷として使用されていた佐賀鍋島藩から譲り受けた向島隠居所数寄屋造りの建屋を利用、明治天皇が利用するに格式が備わっていました。

明治天皇を見送りに来た皇后。(中田屋にて)

3 本陣跡:旧日光街道を挟んで中田屋の反対側に本陣が有りました。本陣跡の石碑があります。江戸四宿(品川・新宿・板橋・千住)は、本陣が1軒でしたが、何かの時に間に合わないので脇本陣があります。千住では更に不足の場合、宿内の勝専寺、慈眼寺、源長治、誓願寺などが本陣の役目として利用された。本陣は誰でも休泊できたわけでなく原則として勅使、院使、門跡、公家、大名、旗本等々が利用しました。

 

4 見番横丁:本陣脇の通りの路地が見番横丁です。この路地には明治時代から芸者の置屋、髪結い処、人力車屋、三味線方等が設置されていました。見番とは芸者の取次、玉代の計算、芸者の取締りなどをする事務所(置屋兼用)です。大正から昭和の初めにかけ賑わいましたが戦時空襲後復活することはありませんでした。

見番横丁の左側中ほどに見番が有った。
右側は旧道より裏通りまで本陣跡

5 千住街の駅:千住の観光案内所です。街の情報発信地です。千住のマップ、催し物の案内、昔を残す千住の写真、チョットしたお土産等があります。建屋の正確な建設時期は不明ですが、大正はじめの頃だそうです。10数年前は魚屋でした。中に大きな冷蔵庫、蛇口が幾つか残っています。建屋脇の路地には地震棒が建屋を支えています。詳しくは、このホームページ“千文会だより・お休み処千住街の駅”を見て下さい。

 

6 千住宿場町ジオラマ:1/50の千住宿で千住一丁目と掃部宿の一部を復元しています。文化3年(1803)頃を表しています。此処は駅間へ丸井の10階です。街並は南北に走る日光街道を中心に街並みが作られています。街道幅は、4間(7.2m)です。現在も道幅は、ほぼ同じです。町場の地割は、街道にほぼ直角に短冊状に並べられています。間口が狭く、奥行きが長い鰻の寝床です。道中に面して店を構え、その奥が裏長屋、離れなどの住居、蔵が置かれています。模型の南側には問屋場・貫目改所、一里塚・高札場、飛脚宿も復元されています

日光街道

一里塚榎木が立っている。