隅田川沿い周辺を行く 千住大橋から尾竹橋
千住大橋と尾竹橋間の隅田川河岸は、昔、葦や萱が茂っていました。昭和初期、千住緑町の湿地帯を京成電鉄の日暮里、上野間のトンネル工事残土を利用し埋め立て整地されました。地図で見るように井桁の様に、宅地整理されています。
その対岸は、三河島水再生センター(下水再生センター)があります。旧三河島汚水処分場ポンプ施設があり、大正時代に運用され、今では国の重要文化財となっています。
橋は無いですが京成線と千代田線が隅田川を渡っています。
伊那備前守忠次が千住大橋の架橋工事の奉行を勤めた。
工事は困難を極め、熊野神社に祈願をしました。工事は、無事完成。
以来、橋の造営工事の度に残材で熊野神社の修理を行うことが慣例になりました。
熊野神社創建:永承5年(1050) 源義家の勧請と伝えられています。
千住大橋は1594年(文禄3年)隅田川に最初に架けられた木橋です。
現在の橋は1927年(昭和2年)に架けられたアーチ型鉄橋です。
架橋下テラスには、橋番付河番付・広重、北斎の浮世絵が堤防に描かれています。江戸時代千住大橋は高野槙の杭を使用していました。
杭に繋がるブイが橋下に浮いています。
此処が、将軍家の船着き場でもあった掲示板があります。。
此処は隅田川のスーパー堤防の場所です。モニュメントとして隅田川旧防潮堤が設置してあります。別名「カミソリ堤防」と呼ばれていました。
この付近は景観が素晴らしく地域の人々の散歩道として喜ばれています。
この地域に、ニッピ及びリーガルコーポレーションの大規模工場敷地跡地にショッピング モール「ポンタポルテ千住」等が再開発により誕生しました。
京成線は昭和6年(1931)に日暮里・千住大橋・関屋・青砥間開通。
昭和7年から開始した日暮里から上野間のトンネル工事で出た土砂を使用し宅地造成がされました。場所は千住緑町付近。土砂の運搬荷下ろしで使用していた停車場を西千住駅として千住大橋駅と隅田川橋梁間に昭和10年設置されました。(昭和22年に廃止)
平成19年に下水道分野の遺構で初めて国の重要文化財(建造物)に指定されました。隅田川中流に位置している旧下水処理場施設は大正11年に運用され80年近く役割をはたしてきました。
汚水処分場喞筒場(ポンプ場)施設は、今日の下水処理施設の基礎となっています。都電荒川二丁目から歩いて3分ほどです。
尾竹橋の下流、隅田川沿いにある公園です。
“お竹の渡し”の名でかつて此処 尾竹公園と対岸の足立区千住桜木町公園の間を渡し舟が行き来していました。
この交差点は、掃部堤と熊谷堤の分岐地点です。
掃部堤は墨堤通りとなっています(写真右側)。
交差点の西側が、千住桜木町公園です。
昔、お茶屋さんが3軒有り、渡し舟の名の云われ お竹さんがいました。
葛飾北斎の描いた冨嶽三十六景の一枚
“武州千住”が描かれた場所です。
隅田川、元宿圦の配置、その水を止める堰は浮世絵の配置に似ています。
北斎はここで絵を描きました。
富士山は、近くの荒川土手より見えます。
東京電力の火力発電所がこのモニュメントの少し南側に有りました。
煙突が見る場所を変えると1本から4本に見えます。
大正14年(1925)隅田川河川敷尾竹橋公園に東京北魚市場が有りました。
千住大橋の足立市場の前身市場です。
昭和10年、東京市が中央卸売市場の足立分場を計画しそこに移転することと内定、昭和20年に移転されました。